沢木興道

現実、現実と言うが、これみな夢である。夢の中での現実でしかない。死んでみれば、夢だったなとよくわかる。 野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人 - 野鳥はいい声を聞かそうと鳴くわけではなく、花も美しく思ってもらおうと咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。 - みなただ自分が自分を自分しているのである。 たいていの人間は忙しい、忙しいと言っている。なんで忙しいかといえば、煩悩に使われて忙しいだけの話だ。坐禅していれば暇だ。天下一の暇人になるのが坐禅人である。 作りものの世界は、いつでも変わるに決まっている。文化とは作りものが発達したにすぎない。だから文化とは悲劇なのだ。 科学は人から貰い物の上に積み重ねがきくからどんどん進歩しよる。それに反し人間そのものは、人から貰い物はできないし、積み重ねもできないから、ちっとも良くならない。 あほが電子計算機をあやつり、のろまがジェット機に乗り、気違いがミサイルの発射ボタンをにぎっている。 しずかに落ち着いてよく読んでみれば、マルクスもエンゲルスも餌の分配の話でしかない。 宗教とは何ものにも騙されない真新しの自己に生きることだ。 人間の仕事を何もしないのが坐禅だ。 お釈迦様は私だけ悟ったとはおっしゃらない。有情非情同時成道なのだから。ところがみんなは、そんな連帯的悟りでは物足らない。個人持ちの悟り、ご利益。つまり「我」が好きなのだ。